終戦の日からの一歩:松代で戦争末期の日本と出会う

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終戦の日からの一歩:松代で、戦争末期の日本と出会う】

こんにちは

8月15日の終戦から一夜明けた日を、71年前の日本人は、そして、世界の人は、どう迎え、何を糧に戦後を生き抜き、この現代を作ってこられたのでしょう?

 

そう、長野県の松代で、極秘で着工されていた任務を遂行していた方々も、どんな心境であったのか、思いを馳せると胸が痛いです。

何より、この事実を知らずに、悠々と生活し、歴史を知らず、光の繁栄の部分だけ享受していた自分たちに反省でもありました。

 

 

終戦記念日を迎えた昨日、戦争の反省も大事ですが、本当に大切なのは、反省を活かし、次の未来に向けての歩みと思い、今日という日にブログに書くことにしました。

皆さんは、本日、どんな一歩を踏み出していますか?

 

 

先月、長野県松代の象山地下豪に出向く機会がありました。

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松代と言えば、NHK大河ドラマでも注目を浴びる真田幸村が有名で、城下町としても栄えていた地です。

でも、この地下豪の事まで、皆さん、ご存知でしたでしょうか?

 

 

時は、第二次世界大戦の末期、昭和19年11月11日午前11時に着工、翌20年8月15日の終戦まで、およそ9ヶ月に及び、当時の金額で、2億という巨額を投じ、延べ61万人の日本人や朝鮮から動員された朝鮮人が工事に臨み、約75%も完成させた地下豪です。

 

 

これだけ読んでも、なかなか驚異が伝わりにくいと思うので、比較してみます。

当時、トンネルを作るための工事と言えば、12ヶ月で、7,000mのスピードが基準らしいのですが、この地下豪は、9ヶ月で、10kmです!

桁が違う!!どれだけ過酷な労働を強いられたのでしょうね(>_<)

 

 

では、何故、ここまで切羽詰まった突貫工事をしなければならなかったのでしょうか?

 

工事着工が検討された頃の日本は、サイパンが陥落し、本土への空襲が増し、いよいよ本土決戦かという危機迫った苦しい戦況となっていました。

本土決戦となると、日本の中枢機関のある関東は平野であり、奇襲に弱いため、軍部の一部のみの極秘の中で、軍部や皇居、政府機関や放送関連機関、食料庫などを大々的に動かす計画が持ち上がりました。

そこで、選ばれたのが、松代象山でした。

理由は、4つ

 

・地質学的にも堅い岩盤であり、空襲に耐えられること

・海岸線から遠く、山々に囲まれ奇襲しにくい要害の地であること

・近くに飛行場があったこと

・信州は、神州であり、神聖な地であること

 

4つ目の理由は、日本の精神性や当時、どれだけ戦争が逼迫していたのか感じられる理由ですね。

 

 

 

このような背景のもと、着工された地下豪建設でした。

次の疑問、必要性は分かったけど、そんな過酷な労働、誰がやるの?

 

当時、力のある男性は戦争に駆り出され、地下豪建設がなくとも労働力が低下していた日本です。

例え、家族に労働可能な人材がいたとしても、そんな労働を大事な身内にはさせたくない!と思う心も働いたようで、

白羽の矢が立ったのは、日本が統治していた朝鮮でした。

動員された朝鮮人に関しての表現は、様々で、強制連行とも、有志とも・・・。

地下豪でボランティアをされている方の話に寄ると、やはり、朝鮮でも、身内大事の心が働き、官僚というよりは、当時、身寄りがなく、食べる物にも飢えていた朝鮮人の働き口として、連れて来られたとありました。

 

そして、過酷な労働により、日本人への反発が起こることも予想され、組織は、朝鮮人に役職を与え、労働する朝鮮人を管理させる仕組みを活用(>_<)そして、隣り組制度のように、同じ班に、規則を破るような事をする人がいれば、同じ懲罰を受ける制度も作り、朝鮮労働者を仲間同志で監視させ、縛っていました。

 

 

では、実際は、どれくらい過酷な労働を強いられたのでしょうか?

 

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これは、朝鮮の方々が、日本人に見つからないように、地下豪に記した叫びです。

左は、地名が書いてあり、故郷を偲んでの表現、

右は、朝鮮の死装束で、自身の死を覚悟した表現との事。

 

 

食料事情が悪い中、1日3交代の昼夜兼行で工事は進められました。

堅い岩盤はダイナマイトで爆発させますが、埋もれた不発弾の爆破により命を落とした方も多く、事故に巻き込まれなくとも、足袋の支給もままならず、心身が冷え冷えする環境の中、何十キロという思い岩盤を運ぶ作業が続き、苦境に入ると12時間交代となり、その結果、栄養失調や発破・落盤事故、自殺、待遇改善を要求しての射殺等で、三百人とも千人とも言われる犠牲者を出したと伝えられています。

 

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入り口には、慰霊碑が建てられています。

 

 

日本人と朝鮮人の関係性は、労働させる者と労働させられる者の関係性であったかのようにも思えますが、家族で日本へ来た朝鮮人もおり、子供たちは、日本人と共に学校に通ったり、農業を手伝ったり、主従関係を越えて、共に支え合い生活していたという事も伝えられています。中には 日本人と朝鮮人で、結婚した方もいたそうで。

 

 

こうして、多くの犠牲者を出した地下豪建設ですが、終戦を迎えた翌日の今日、どのような思いで、どのような一歩を踏み出されたのか?

8月15日は、日本から観れば、終戦記念日

朝鮮から観れば、独立記念日

 

 

大きな基盤が変わった時、日本人と朝鮮人の関係性は変わったのか、それとも変わらない絆で、抱きしめ合えたのか。

暴力や権力、お金の支配での関係性ではなく、国を越え、身分を越え、主従関係を越え、お互いを尊重し、戦争で翻弄されながらも、地下豪建設がゴールではなく、その先の本来の目標を目指し歩んだ仲間として関係を構築した日本人の心をみつめていきたいです。

 

 

敗戦国となった日本は、この地下豪建設も、明るみに出るのを恐れたようで風化の危機にあったそうですが、戦争を繰り返さないためにも、ここで犠牲となった多くの方のためにも、事実を後世に伝えていく必要があると立ち上がった女性がいます。

初めは、その女性一人だけで、資料を集めたり、必死の思いで、今日の姿を残して下さったようで、私も時代を越えて、こうして巡り会えました。

 

だから、今日、この女性の意志を引き継ぎ、ブログに記したいと思います。

終戦記念日から明けた始めの一歩として。