寄り道

 

 

 ご訪問、ありがとうございます。
 次のブログを読み、皆さんは、何を感じ、何を思いますか?

 

東京の某所のカフェで、仕事をしていた。たくさんやらなくてはならないことがあって、ちょっとあせっていた。

 ふと顔を上げると、ヨーロッパから来たらしい青年が、前のテーブルに座っていた。バックパックを背負い、真剣な顔をして本を読んでいる。その本が、Roger PenroseのEmperor's New Mindだったので、思わずはっとした。

 ちょっと背伸びをするふりをして、テーブルを立って、滅多にそんなことはしないのだけれども、声をかけてみた。

 「こんにちは、失礼ですが。ペンローズを読んでいるんですね?」

 「ああ、はい。」

 「学生さんですか?」

 「いや、そうではありません?」

 「旅行中?」

 「はい。去年、大学を卒業ました。」

 「どこの大学を出たのですか?」

 「ケンブリッジ大学です。」

 「ああ、ぼくもケンブリッジに留学していました! 何を専攻していたんですか?」

 「物理学です。」

 「じゃあ、ぼくと同じだ! 今は、何をしているんですか?」

 「さあ。世界中を旅して、ボランティアをやったり、言葉を勉強したり。」

 ぼくの中で、ひらめいたものがあった。

 「あなたはギャップ・イヤーをとっているんですね!」

  「そうです!」

 「ギャップ・イヤーが終わったら、どうするんですか?」

 「さあ。大学院に行こうと思っていたけれども、今は、働こうかなと思っています。イギリスに帰ったら、探しますよ。」

 「大学に入る前にギャップ・イヤーをとる人が多いと聞いていたけれども、大学を終えてからとる人もいるんだね。」

 「人によると思います。人生で何を求めているか、それと、経済的に可能かどうか?」

 「大学を出てすぐに仕事につかないと、なかなか仕事が見つからないということはないですか?」

 「いいえ。なぜそんなことがあり得るのですか?」

 「いや、履歴書に穴が開く、とか、そういうことは言われない。」

 「穴? どういう意味ですか? ギャップ・イヤーの間に、いろいろ経験を積むことが穴? だとしたら、その穴は、とても生産的な穴でしょう。」

 ちょうどその時、カフェの横を、リクルートスーツを着た女の子が三人で通っていった。

 「日本ではね・・・」

 「日本では?」

 彼が、真剣な顔をして聞いている。

 日本では、大学の三年から就職活動をして、それで就職できないと企業がとってくれない。「新卒」で就職するために、わざわざ留年する人もいる。そもそも、女子学生で、就職活動をしている人はすぐにわかるんだよ。みな同じ格好をしているから。別に、法律で決まっているわけではない。なぜか、すべての企業が同じふるまいをしているんだ。日本人は、みな一斉に事をやるのが好きなんでね。それで、学生がそれに合わせる。もっとも、そんな画一主義はイヤだ、とドロップアウトするやつもいるけど。個人的には、そういうやつにこそ、新しい日本を作ってもらいたいと思う。ところが、マスコミがまたクズで、あたかも、新卒でいっせいに企業に就職することが、当然だ、というような報じ方をするし。それが、偽りの社会的プレッシャーとなって・・・

 そんなことを説明しようと思ったけれども、自分の愛する国の恥を、この真剣な顔をした青年にさらすのは、はばかられた。

 「狂っているよね。」(Mad, isn't it?)

 思わず、口から出た言葉。異国の青年が、いぶかしげに見ている。

 「狂っている?」(Mad?)

 自分が、失言をしたことに気付いて、顔が赤くなった。

 青年が、ぼくを見ている。「狂っている」と聞いて、何が狂っているか、と素朴な疑問を持つのは当然である。まさか、「日本が狂っている」と本当のことを言うわけにもいかない。

 とっさのひらめきで、話題を変えた。

 「ロジャー・ペンローズ。彼は狂っているよね。」
 
 「つまり、それは、面白い意味で狂っているということ?」

 「そう。あなたは、Emperor's New Mindをどう読みましたか?」

 「量子力学観測問題のところなのですが・・・」

 それから、私と彼は10分くらいペンローズの話をした。
 彼の名前はティム。これから、フィリピンやタイを回って、7月頃にイギリスに帰るという。

 仕事をするにしても、これからのグローバル社会、多様な経験がビジネスに役に立つだろう。ティムのような若者が、新しい世界をきずいていく。

 ティムに別れを告げて、私は東京の街を歩き出した。桜があちらこちらに咲いている。たおやかで、優美なものを愛する日本。ティムにも、すばらしいものをたくさん見ていって欲しいと思う。

 日本は素晴らしい国だと思う一方で、「自分がもし今学生で、就職を考えていたら」と考えると、深い絶望にとらわれる。

 赤塚不二夫のマンガで、飼い犬が野良犬に、「こんな首輪がなければもっと自由に歩きたいんだ」と言うのがあった。ところが、飼い犬は、首輪がとれてしまうと、慌てて自分でもとに戻すのである。

 日本人は、いつから、自分たちをこんなに不自由にしてしまったのだろう。
 法律で決まっているわけでもないし、誰もそうしろなんて言っていないのに。

 インターネットに象徴される情報革命で、「ゲームのルール」が変わった。組織に「所属」する個人ではなく、クリエイティヴな個人がダイナミックに合従連衡することで、イノベーションが起こる。

 そんな新しい時代に、日本の社会は適応できていない。失われた10年が、20年になろうとしているのも当然であろう。デフレは、日本の社会のインテリジェンスの欠如の表れである。

 スズメが飛んでいた。一羽が、桜の枝に止まった。
 彼らは、好きなところに飛んでいく。野生というものはそういうものだろう。

 日本人は、いつから野生を失ったのか。
 ぼくは、果たして野生を持っているのか?

 日本にも、ギャップ・イヤーを導入することはできるだろう。それは、助けになるだろう。しかし、そのようなことが、外国から輸入される国と、自分たちの中で、内発的に、ごく当たり前のこととして出てくる国は、何かが根本的に違う。

 日本人は、これからの世界に向けて一体何を、内発的に生み出すことができるのだろうか。

 桜の花は、暖かい陽光の下で、満開を迎えていた。

 

これは、茂木健一郎さんのブログです。

ギャップ・イヤー、大学入学前や就職前に海外生活やボランティアなど普段は経験できない事を積む事をさし、今後の社会生活に活かす目的で、日本にも導入が試みられているようです。外の世界を取り入れる考えは素敵だなと思う中、茂木さんの考察、深い質問なるほどと思います。皆さんは、これに、どう答えますか?私も探していました。探して、探して、ようやく出会えました。『観術』です。日本の和心で、世界に発信でき、世界を包越できる教育、認識技術が既に開発されていました。日本人が重んじてきた道の文化、生き方にこそ、世界に発信できる美しい創造の秘密があります。二人が専攻していた物理の量子力学が、未だ解けていない世界も論理とイメージで、一貫性を持ち、説明しています。科学技術の限界・学術の知の限界を補い、東洋の悟りの世界を繋ぎ、情報化社会の多様複雑な世界をシンプルに整理整頓できる認識技術を次の時代が求めています。ワクワク♫